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応亮の《アヒルを背負った少年》は、「独立宣言」

応亮の《アヒルを背負った少年》は、父親からの「独立宣言」。

   《アヒルを背負った少年》は2005年、応亮の初めての作品だ。2005年の東京フィルメックス映画祭で審査員特別賞を受賞した。応亮は翌2006年にも第2作の「アザーハーフ」で2年連続で同映画祭の審査員特別賞を受賞しており非常に注目されている新世代監督のひとりだ。1977年、上海で生まれたとされている。

   映画の舞台は、長江中流の四川省自貢市近郊の農村。ひとりの若者が農村から自貢市に父親を探し求めてやってくることを巡って展開される。少年と母親、妹が住むこの農村地帯は、いまダム建設と工業団地開発に因って遠く離れた地域への移転が迫っている。同時に、自貢市内では都市建設が進行している。

   少年は17歳。母親と妹との3人で暮らしている。父親は少年が11歳のときに家を出たまま帰って来ず、最近になってやっと自貢市内にいることが、父親の送って来た手紙と1000元のお金と手紙に記された住所から明らかになる。「自貢市幸福路 幸福ホテル」。少年は父親を連れて帰るために、母親と妹を振り切ってひとり自貢に向かった。2羽のアヒルを入れたかごを背負って。

   この映画《アヒルを背負った少年》には、3人の父親が登場する。ひとりは、言うまでもなく少年の実の父親だ。2人目は、少年が街に向かうバスの中で出会った男だ。この男は、やはりかつて農村地帯から都会に出て来たらしいが、今ではあまり良くない仕事に就いているようで、言ってみれば中年になった「やくざ」のような男だ。そして、第三の父親は、あまりうだつの上がらない警察官だ。

   少年は、これら3人の「父親」を追い求めると同時に、最後にはこれら3人の「父親」を乗り越えて、自分の世界を進むことを決断する。この映画は、少年の「決断の物語」であり、同時に監督自身の、この世界で生きて行くことを決断する物語でもあるということができる。

   実の父親は最後に触れることにして、バスの中で出会った男、「2人目の父親」から始める。少年と並んでバスに座ったこの男は、バスから降りようとする若い男を捕まえ、その男から財布を取り戻す。その男はスリだった。乗客の女から盗んだもので、「2人目の男」はその被害者から礼金を受け取る。「男は強くなければ、馬鹿にされる」。そして少年が背中に指しているナイフを取り上げ「徐二か」と実の父親の名前を言った時、少年はそのナイフを力一杯取り戻す。しかし、少年は自貢に就いてバスから降りた後、その男につきまとう。気づかれないように、そしてその一方で男から逃げ出そうともする。いっしょにバスに乗った2人はスイカを食べる。男が買って来たスイカを少年は一口ずつ食べているが、男は「男はこうやって食べるんだ」というと、さくさくさくと食うと皮をぽいとバスの外に投げ捨てる。すると少年も同じようにかぶりつくと、ぽいと皮を外に投げ捨てる。こうして男は、「もうひとりの父親」になった。

   男は、少年に1軒の家に住むように言って少年から、アヒルの入ったかごを預かってどこかに行ってしまう。ところがその家は警察に封鎖されていたため、近所の女の通報で少年は駐在所に連れて行かれる。そこで少年はもうひとりの「父親」と出会う。中年の警察官だ。警察から解放された少年が駐在所の外に出てみると道路の真ん中に男が持って行ったはずのかごに入ったアヒルが放置されていた。少年は、男の身の上になにか良くないことが起こったのではないかと感じる。男は、何かの事件で男たちに連れて行かれ、逆にその男たちをやっつけて逃走したことがテレビで明らかになる。後半、男が追っ手数人に追われて逃げてくる所に出くわす。男は言う。「おれに近づくな」と言い残し、男たちの車に押し込められどこかに行ってしまう。「父親」は去ってしまった。

   警察官は、少年と一緒に父親が手紙で書いた「幸福路」を捜しもとめる。ここで再びスイカが登場する。捜し疲れて階段に座っている少年にスイカを差し出す。2人は並んで座るとさくさくさくと食うとぽいと捨てる。こうして警察官は少年にとってもうひとりの「父親」になった。

   警官は一緒に少年の父親を捜す途中で、別れた妻と子供が自転車の練習をしているところに出くわす。捜索に疲れた警官は「良いところに連れて行ってやる」と言って川の中に流れ着いたと言う仏頭に連れて行く。少年がその仏頭に水をかけている間に、警官はすぐ近くの路上で誰かに刺されて大けがを負う。少年の懸命の働きで警官は九死に一生を得るが、そこに別れた妻と子供がやって来て、警官を連れて行ってしまう。警官もまた「父親」ではあり得ないことがわかった。

   その病院に、実の父親が自貢で一緒になった女が父親と思われる相手に電話しているところを聞いてしまう。少年はその女を追いかけて、ついに父親と女、そして娘が暮らす家を突き止めた。父親が居ない間に女の家に入り父親が居るところを聞き出そうとする。ついに少年は女から父親の居場所を聞き出す。

   少年の上半身がアップされるシーンが2回登場する。1回は、映画の冒頭、こちらを向いた少年が画面の外から聞こえてくる母親の声に逆らって、街に父親を捜し出して連れて帰ることを主張する場面だ。もう一回は、終わり近く、父親が街で夫婦となった女性から父親が「街の外れにいる」ことを聞き出した後、水害が近づく表の通りに飛び出し、我々の方を向いて、父親のところに向かうことを決断するシーンだ。映画の冒頭でこちらを向いている少年の表情には、なにやら母親を振り切ることに対する迷いが窺われる。しかし、後の場面の少年の表情にはそのような迷いは見て取れない。「父親を連れて帰るのだ」という強い決意が見て取れる。

   しかし、少年のこの「決意」は、街の郊外にあるレンガ葺きの小屋で父親と対面した瞬間に大きく展開する。父親は事業に失敗して借金をかかえ、この小さな小屋で、借金取りの目を避けている。しかし、借金取りの2人組が小屋と父親を発見し、連れて行こうとする。少年は父親のナイフを振りかざして2人の男たちを追い払い父親を守った。その、少年に対して父親はこう言う。「  」。この瞬間、少年は父親を連れて帰ることを断念すると同時に、父親を殺害することを決断する。少年は父親を刺し殺し、その頭髪を切り取るのだった。

   大水害が街を襲い、全てを流し尽くしてしまう。少年は農村に向かうバスに乗っている。故郷に近づいた時、バスから降りようとするスリを見つけ、取り戻すとともに礼金として紙幣1枚を手にする。やがて、少年は故郷の農村に帰るが、そこには既に以前の自然いっぱいの農村は無く、一面工業団地建設のため開発されていた。少年は、その中で、1本の木の根元に手で穴を掘り、父親の頭髪をバスの中で手にしした紙幣に包んで埋める。父親のナイフは既にない。再び、画面の外から聞こえてくる母親の呼びかけにこう答える。「  」。

   少年の独立宣言だ。それは監督自身の「独立宣言」だと言うこともできる。

# by KAI-SHI | 2007-10-20 22:47 | 中国語圏の映画  

《浮生》の盛志民監督インタビュー

《浮生》の盛志民監督インタビューが、《電影芸術》07年1期にある。
69年生まれ。賈樟柯や王兵たちと共通する部分が多い。質問に対する共通の回答。父または母について、「彼(彼女)は私が何をしているか全く知らない」。
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写真は07年6月の上海国際映画祭で撮影。

# by KAI-SHI | 2007-10-15 00:10 | 第六世代  

《烽火》の楊樹鵬監督インタビュー

《烽火》の楊樹鵬監督インタビュー
電影芸術。07年5期に掲載。
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# by KAI-SHI | 2007-10-13 12:11 | 第六世代  

王兵監督の《和鳳鳴》が大賞を獲得

王兵監督の《和鳳鳴》が山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペ部門で大賞を獲得した。同祭では、《鉄西区》に次ぎ2度目の大賞獲得だ。
《和鳳鳴》は、鳳鳴という名前の女性が、反右派闘争以降続いた「運動」の中で「右派」とされたことにより経験した苦痛の半世紀を、この女性に対する長時間インタビューによって訴える。そして、現在もなおこの苦痛が癒されることは無く、その主張の公表すら決して「安全」では無いことが見て取れる。全編180分。前作の《鉄西区》の9時間に比べれば短いが、180分は決して短くはない。しかし、最後の場面まで、あっという間と感じられた。その訴える力は圧倒的だ。
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《和鳳鳴》を見ることを最大の狙いに山形に出かけただけに、大賞獲得はとてもうれしい。
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アジア千変万化の小川紳介賞は、馮艶監督(大阪在住)の《稟愛》だった。《雲の彼方に》が同部門特別賞だった。

# by KAI-SHI | 2007-10-10 23:59 | 第六世代  

賈:ファッションと権力の密接な関係

07年9月12日に、外灘画報の掲載としてシナコムが掲載。

10301賈:これ(パリ)は私が初めに撮った部分だ。初めパリでマルコを撮った時は非常に困難だった、なぜなら彼女は画面に顔を出すことを願わない人で、カメラを取り出すとすぐに顔を背けた。非常に忙しくなってやっと、マルコはカメラを避けることに拘らなくなった。《無用》のパリでのファッション発表会はある中学の室内体育館でおこなわれ、私は時尚がよくわからなかったが、それが通常とは違うところを知っていた。発表会が始まる前、各大ブランドが席を争い、美しい会場にはびこっているのは権力と地位の分布だった。始まるや、幕が眼前からきっておろされ、みんなは初めて発見した、これは座ってながめる伝統的意義の発表会ではなく、モデルは動かず、見に来た人々は自らモデルの間に歩いて行かねばならなかった。そのとき、どのような権力も地位もブランドにも限界が生まれた、みんなは歩いて行った、その時私は現場でとても感激させられた。現場はカットの中よりもっと感激させられる。

10302賈:私はそれまで全く時尚というものを知らなかった、記録フィルムを撮る前もマルコがどんな考え方を持っているか知らなかった。後になって私は実は各領域の中国現代芸術家の思考の問題はいずれも非常に接近していることを発見した。例えばマルコは消費時代がこの社会にもたらした種々の問題を考えている。大量の流れ作業の生産が人と人の間の感情関係を切断した、消費の別の面を注目すると、我々の消費というものはみな自由勝手に捨てることができるもので、我々の物事に対する記憶はいままさに消失している。ちょうど記録映画の中でマルコが言うように、以前我々のある器に対する記憶は父親の世代にまでさかのぼることができるが、現在気ままに捨てられるその時限りの器の背後にはこのような記憶は無い。これと中国が現在古いものを捨て新しいものを使う現状は非常に接近しており、一切が捨てる!捨てる!捨てる!だ。

10303賈:この点がこのフィルムが私を最も動かした。現在中国人のテンポは速すぎる、このようでは文化の状態を反省する時間は無くなってしまう。しかし中国の知識分子はなお思考している、例えばマルコがこのように自ら成功した人物が、彼女のもう一つ別の「例外」というブランドで商業的にすでに非常に成功した状況の下で、このように消費時代を考えることは、ある意義においては彼女の成功に対する反対するものだった。《無用》の撮影が私に服装を観察する助けとなり、私の焦点は中国の経済活動に置かれた。前の世紀の90年代、経済生活がほとんど唯一の中国人の生活内容となった。マルコの《無用》と同じように、このフィルムも眼前に盛んに行われている消費主義に直面せざるを得なかった、そしてこの面での反省が、我々の文化全体に非常に意有って力足らずのように見える。中国では、ファッションと権力には密接な共謀関係があり、次々に生み出される新しいブランドと不断な歴史記憶の抹殺の間には一種の曖昧な関係があり、我々は問題を追及しなければならない。

10304賈:私が以前撮った映画の大半は一つの閉鎖された一対の男女に限られ、彼らの物語は比較的単一だった。今回の地域の3種の人生は座標軸と同じように、シーンの間の複雑性を反映しており、これは正に現実の中国の複雑な多様な階層だ。私が見るところ、今日再び単一の閉鎖された伝統的叙事を使うのは、私が現実の生活の中で感じているあのような人々の人間関係の複雑さと多様性を表現することは非常に困難だ。今日、我々は往々にして同時に互いに関連の無い多種類の人間関係の中で、あるいは異なった地域の空間の中を行き来する機会がある。我々は異なった生活や人間関係に対して対比と相互の参考をするなかで、我々の新しい世界経験を形成する。さらに、以前は撮影は比較的感傷的あるいは自我の救助を表現したが、今回は中国にまだある芽生えている力を撮ろうと思い、山西のあの部分のシーンでは、ひとりの子供が自転車の上で衣服を振り回して、大声を挙げながら進む、彼ははっきり分かっていないが、なぜそうしているのか知らないが、それが大きな力を持っている。

10305賈:(悲観ではなく希望があると?)そうだ。むかし私にこう言ったことがあるが、それぞれの人の間にはみな関連があるのだと、しかし正に《無用》を撮った後、私ははじめてこの点を意識した。この意識は突然私にある種の気持ちの広がりを感じさせた、つまり私が映画館の中の上映員と監督の間にも関連があるのと同じようなものだ。人と人とは関連したもので、このようであってはじめて愛する気持ちが表れる。冷たさを感じるというのは、関係が存在しないからなのだ。

10306賈:私はずっと記録映画と劇映画を交互に撮ってきた、なぜならこの両者は真実に向かう二つのルートなのだ。劇映画を撮っているとき、私は往々にして一種の客観的態度をとるとともに、人の日常状態の観察に注力する。記録映画を撮るときは、私は往々にして現実の中の演劇的雰囲気を捉えるとともに、私の主観的感覚と誠実に表現しようとする。私に例えて言えば、山西汾陽の裁縫師を撮るときは、私はそのような記憶にな残りを惜しんだ。工業化された現代、既にこのような一枚の衣服に対する時間は無くなり、汾陽では大量生産の過程がありうるし、裁縫と閑話をすることもでき、時には裁縫店で喧嘩することすらできる。

10307賈:《東》から私は芸術家がいま何をしているか知りたいと考えた。20年近く、知識分子は周辺化されて、大衆は彼らの理論を聴こうとはしなかった。私は芸術家の状態を大衆に紹介しようと思った。芸術家は知識分子の中で比較的容易に捉えられる集団で、彼らは思想家のように抽象ではなく、彼らはもっと内容は奥深いが表現は分かりやすい。この世俗の時代に、精鋭な知識分子は周辺化されても依然先覚的な洞察力を備えており、時代の進む方向についてプロレタリア大衆よりもっと「先知」がある。

10308賈:(《無用》でマルコは泥土をモデルの顔に塗って化粧効果を出し、山西の炭坑の労働者は衣服と体の石炭カスは洗っても洗ってもきれいにならない)フランスの泥は顔の上に塗られ、山西の土は肺の中に吸い込まれる。マルコは金字塔の頂きにあり、労働者と裁縫師は基礎にある。この強固な消費の時代に在って、頂きに立つ芸術家は自己のやり方を通じて考え方を伝えて行こうと考えるが、感じる力は従わない。「文革」以来、中国の経済が良くなって来たが、文化は却って非常に粗暴に扱われ、現在中国の文化には蓄積がなく、不断に消されていっている。文化とは何か?それは無用なものであり、食べることも着ることもできない。

# by KAI-SHI | 2007-09-26 12:38 | 賈樟柯